昭和五十年十一月十三日 朝の御理解
御理解第四十五節 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ」
昨日は、美登里会の方達の研修日でした。
西岡先生の司会で、皆さんの話を聞かせて貰ったんですけど、もう本当に、一人一人の話を聞かせて頂いて、まあほとほと感心した。ようもここまで育ったもんだと思う程に感心したです。
それが、私がその方達の信心を、日頃知っておりますから、いわゆる嘘がないのですから、本当に、成程そこまではおかげを受けておられるであろうと、思うから感心するのです。あれがもし、よその御信者さんの話を聞いておったら、「あら、ちったあオーバーだろうと。人間の心が助かるというたって、そんなに簡単に助かるもんじゃない」というふうにですね、思うたかも知れません。
けれども、日々の信心の稽古の、皆さんの様子を知っておりますし、「成程こういう行き方で信心を進めるなら、こういう心がひらけるのは当然だと。まあ、素晴らしい心がひらけて来よんなさるか」と私は感心しました。
まあ、二、三拾うてみますと、善導寺の原さんの、例えば自分のことを、悪口を言われる、それがやはりカツンと来ることは来る。けれども、「あんなこと言われたからもう忘れん」と、勿論言うて戻さんならんという気持ちも起らんけれども、しばらくしたら「あの人もあんなこと言われて、早く気分を悪くしておられるであろうから、こっちからものを言うてあげよう」というような心が起きてきた、という発表をしておられた。
私は、本当に人を責めるということが、如何につまらないことかということを思うんですけど。それで昨日、私、散髪屋が来てくれました。それがもう、二、三日前から来てもらわんならん。「今日は来る。今日は来る」と言うて来られなかった。だから、言われるたんびに、こっちは用意をして待っておった。
それで昨日、言わば来た。そこでなら私が、「もう一昨日もこげんして用意しておった。昨日もこんなにして待っとった」と言えば、床屋は大変恐縮するでしょう。「ああ、気の毒か、済みません」と言うでしょう。けれどもね、そういうことを言わせることが信心ではないということです。
私は、その何でもない。以前ならそれを言うとったかも知れん。あれだけ約束をしておったのに、約束をする。「こちらは約束を守っておったのに」と、まあ普通では皆言うことですけど、やはりちょっと何か超越しますと、原さんのそれじゃないですけど、あげなこと言われたら、一週間でも十日でも、もの言うごとなかごたることだけれども、言うた人のことを思い、言うた人のことを祈っておられるのです。そして、こっちからものを言おうという、その心、その心が自分で有難いと発表しておられました。
私はね、いかにも責めとるとじゃないようであって、責めとるとですよ。
例えて、なら床屋の問題もそうです。「あんたが昨日来ると言うとったけんで、ちゃんと用意しとったばの」ち、「はあ、済みません。どうも」と言うて、向こうを済みませんがらする。目的なら良かろうけれども、それはやはりそうです、心が進むということは素晴らしいです。
佐田のお母さん、おばあちゃんが発表しておられました。そりゃもう、幾人ものお子さんをお育てになって、しかも、立派に教育をつけて、立派な女は女、息子は息子、しつけをして世に出しておられる。ところが、佐田さんのお話では、もう言うならば、神ながらなお育て方、「そげなことじゃ。恵美子さんいかんばの。いくらなんでん、言うところは言わにゃ、躾けるところは躾にゃ、怒るところは怒らにゃ。あんまり放任したことでは」と、いつも心の中にあって、心が穏やかでなかったと。もうとにかく神様にお任せしてある。神様にお育てを頂いておるという実感が、この頃頂けてくる。そして、それを言わんですむ。自分が安らかになって、とても有難いと言う発表をなさいました。
「もうこの人ばっかりは、いっちょも言うことをきかん。もうそげなこつ、もうこのまま大きくなしよんなら、ロクなものは出来ん」という思い方が、「神様がお守り、お育てなさるよるのだ」と。自分が邪魔に入っちゃならん。いわゆる私が申します、自然に融け込むという行き方です。もう自然に融け込んで行くという程素晴らしいことはありません。
その中にです、例えば、目に余るという、目に余ることの中に、自分が神様のお働きの中で、自分の心が融け込んで行くのが、それは自然を生かすことになると、皆さんにいつも聞いて頂いているように、自然に融け込んで行く程素晴らしいことはないです。どういう問題が起こっても、どういうことがあっても、そのことにこちらが融け込んで行くのです。自然の働きに融け込んで行く。
それを、またの言葉で言うと、自然の働きを、いわゆる「成り行きを尊ぶ」「自然の成り行きを合掌して受ける」ということになるのです。ですから、自然を生かす働きが生まれてくるです。本なごと年寄りの言うことは何もいらん。神様にお任せ、お縋りさえしときゃ、子供達の一人一人が、育ち具合を見ておきゃ、おかげ頂いておるということがわかるのです。もう素晴らしい心境の進展ですね、大変な心の進展です。
最後の、熊谷さんのお話をいろいろ聞かせて頂いた中に、言われたことの中に、私はホトホト感心しました。「起きてくるすべてのことは、神様が私に、より本当のことがわからせて下さろうとしておる。神様のお心です」と言うて、お話を切られました。もう合楽の信心の言うならば、すべてをですね。身につけた人でないと表現できないこと。
ええ、ですか、起きてくるすべてはです、それは痛いこと、痒いこと、腹の立つこと、様々な問題がありましょう。事柄がありましょうけれども、そのすべてが、私に、より本当のことをわからせて下さろうとする。、神様の働き以外にないということです。
もう私は、これも、他の人の話を聞いとったら、どこもそげな境地が開けるはずはないと思うでしょう。佐田さんの話にしろそうです。原さんの話でもそうです。しらごっちゃろうと思うでしょう。成程合楽の人達の話はです、やはり抜けておるから、よそではあんまり受けないと思うことは、いわゆる真実性を欠く程に、心がひらけていっておられるということです。信心のない者が聞いたら、嘘のような心のひらけ方です。素晴らしいです。
まだ、幾人もの方が発表されましたがです。もう、どの人の話を聞かせて頂いてもです。素晴らしいなあ。本当に信心の稽古をすることは素晴らしい。勿論、美登里会というのは、朝参りの婦人の方達の、有志の方達で、ちょうど二十名余りの人達です。ですから、そりゃ当然と言えば当然、これ程しの御理解を頂き、これ程しの稽古を、事実その、なさっておられるのですから、そういう心がひらけてくるのは当然ですけれどもです、まあようも育ったもんだなと私もホトホト感心しましたり、有難いと思いました。
最近の会合に、時々感ずるのです。「あんた達は、まあだそげんこともわかっとらんの」というのがこの頃なくなりましたです。皆さんの発表を聞いていて、佐田のおばあちゃんの心の状態といい、原さんの心の状態といい、熊谷さんの心の状態といい、本当に心が助かるということは、そういうことだと私は思います。稽古です、稽古なしに出来ることじゃありませんです。ですから、やはり、そういう心がひらけておられるから、やはり、おかげもそれなりのものを頂いておられるのということでございます。
そこで、私は今日の御理解を頂かせてもろうてです、「慢心が出ると、おかげを取りはずす」と言うことでございますけど、勿論ここまで頂いた、ここまで来た。合楽の信心はここに極まったという程しのものを、三人三様の方達は言うておられますね。
だからそれを、もっともっと本当のものに、垢抜けしたものにして行くことで良いと思うのですけど、それでは余りに信心が小さ過ぎるのです。そういう心の状態で、もっと尊い、もっと大きな願いに立たれる、願いの視野というもの、拡げておいでられるということはです。慢心を起こさんで済むおかげになるのじゃないでしょうか。
慢心というのは威張るというものじゃありません。こういう心の状態がひらけたら、こういうおかげが受けられるのに、すぐ信心のない人、薄い人ばっかりは、そういうやはり思い方は、もうすでに慢心です。ですから、願いというものをです、より高度なところにおかなければいけないということです。
二、三日前に例えば、お互いの信心をもって社会に貢献する、ね。金光教の信心を社会に表わしていく。それには、例えば、学校に勤めるならば学校、役所に勤めるならば役所で、それを表わしていくことにならなければいけないという人達が、先日、秋永先生の御本部入殿のときにあった時にです、「なら、ここに四十名の人達が集まっておるが、その人達が社会にどれだけのことを表わし得るかと。もう信心のことで、自分のことで、筒一杯の人達ばっかりが集まっとるじゃないかと。なら、自分の教会、なら、幹部だ総代だというても、自分の教会のことだけで、つう一杯のことじゃないかと。そういう人達が、どうして社会に表わすことが出来るか。それよりもです、やはりなら、県会議員でござい、または市長さんでございという人達がです、本当にお道の信心を頂かれて、そしてもっと広い視野に立って、金光教を社会に現わしていくような在り方を願わなければいけないというような話をした」と言う話を聞いてもらいましたよね。
「合楽では、市長さんもござれば、県知事さんもござる。県会議員もおる。その人達が、合楽の信心をもって、それに当たっておるという意味のことを話された」と言うのです。
確かにそうですね。そしたら、そこの石浦の田中初美子さん、あんなこと頂いて帰らして頂いたら。楢橋さん(衆議院議員)、その楢橋さんから「親の供養をするから、供養にお参りしてくれ」と言うことやら、原口県会議員さんから何かの連絡があったりしたそうです。
だから、「はあ、どうでも一つ、自分の関わり合いがあるのですから、原口さんとか楢橋さんのような、ああいう広い立場に立っておられる方達に、どうでも合楽の信心をわかって頂くような、お繰り合わせを願わにゃならん」という話がありました。
だから、私は田中さんに申しました。「田中さん、そういう大きな願いに立つことなんだ」と。そのためには、あなたが幹三郎の病気の時にです、もう何をさせて頂いても、例えば、近所に百姓のお手伝いに行かれた。普通ならば、それはまあ義理で行かれるじゃろうけれども、幹三郎さんが、これが全快のおかげを頂かれる修行じゃと思うたら、そのことが有難うして、有難うしてこたえんじゃったと、もう一事が万事に、これで幹三郎さんの全快までは、どういうことが起こってもです、茶碗一つ洗わせてもらうでも、この御用が幹三郎さんの全快につながることだと思うたら、茶碗洗い一つが有難うしてならなかった」とその当時発表されたことがありました。私はそのことにも大変感心しました。
本当に願いを持たないものはない。そんなら願いを持つならです。引き当ててあるところの修行は出来なければでけん。そのためには、この願いを聞いてもらうためにはです、「それはもう、本当にそのための修行だと思うたら、修行が楽になるよ。あんたが楢橋さんに、原口さんに、どうでも信心を一つ頂いてもらわなければならない。
そのためには、一つこの修行を、もう一遍改めて、どういう例えば、難儀な問題が起こってきても、これは楢橋さんがお道の信心を頂かれるための修行だというくらいに、本気に、そのことを取組んで、真剣に、そのことに取り組んで考えたなら、修行が有難いことになり、それが成就することになるだろう」と話したことでした。
田中さんが、昨日の美登里会でも、そういう意味のことを発表しとられました。もう修行はそれに極まったですね。もう最近では、合楽では、表行はしない。ですから、本当に、その願いを持たないものはない。その願いが成就することのために、もうその時点でです、起きてくるすべてのことにです、そのことが、成就することのために、の修行になる。
なら、願うておる、その願いの焦点というものが、神様が喜んで下さる、もっと偉大な、大きな願いを立てることに、育たなければ、信心が本当のことじゃないなと思います。
昨日、私は、美登里会の方達の一人一人の話を聞かせて頂いて、まあこじんまりとした素晴らしいお話だということでした。そういう心が、開けてくるために、だけでも大変なことだけども、それはどこまでも、言うなら家庭的である。それがもちっと社会に向けてというか、教団に向けてというか、または教会に向けてというか、いう願いが大きくなってくる時にです、今、その田中さんのそれじゃないが、「そういう願いを大きくしたのだから、こういう大きい願いを立てとるのだから、このくらいのことは、例えば、修行として受けなければ」という、この辺に相まった信心がね、出来てきたら、もう素晴らしかろう。
昨日の美登里会の方達の信心が、もう一まわり大きくなったら。だからそこには、もう、例えば慢心の出るすきがない程になってくるのじゃないかと思うのです。
「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが」ということは、三宝様ということは、穀物の意とある。「三宝様踏むと目がつぶれる」という程しに、大事な、尊いものであるということ。
そこで、なら、私共がです、これがおかげと頂く元、例えば、どういうことかというと、なら、熊谷さんのお話を借りると、起きてくるすべてが、より本当なことをわからせて下さろうとする神様の御神慮以外にないと、その問題を、三宝様を踏むのでなくて、反対に三宝様を尊ぶということになるね。三宝様を粗末にする。
踏みつけるようにすると眼がつぶれる。だから、それを反対にです、それを尊ぶ、押し頂くような心になればです、つぶれた眼が開いてくるようなおかげになってくることがわかるじゃないか。言うなら、心の眼が開けてくるという信心とは、神様が下さるという一切のものが、それを三宝様と思って、おかげを頂く元、お徳を頂く元として、尊いものとして、押し頂くという心の状態が開けてくるならばです、つぶれておる眼でも開けてくるだろう。
「信心するものは肉眼をおいて心眼を開け」と仰せられるが、その、肉眼から心眼へ開けていくところのおかげを頂くということは、そういうことなんだと。三宝様を踏みつけるのではなくて、おかげの頂ける元、お徳の頂ける元を尊ぶのだ。大切にするのだ。
なら、その、佐田のおばあちゃんが言うておられるように、自然の中に融け込んで行くのだ。それが目に余るようなです、どうしてという、この心を汚しておったのがです、神様がお育て下さるのだ。まあ、自然にこういう問題を下さるのであるから、私ぐらいの小さな心でそれを右左しようという心が、もう、言うならば、神様の働きに対する冒涜である。冒涜だとしてです、自然の中に融け込んで行く生き方がです、自然をいよいよ、生き生きと生かす働きというものを現すことになるのです。そういう行き方を身につけていくというとです。天で頭を打つということもなくなるだろう。自然に融け込むということになる時に、心の状態も段々豊かになってくるだろう。
商売仇のことをです、言うなら昨日の御理解をです、悪口を言う。悪口を言うておる人達をです、その方のことを祈る。また、言われている人のことを祈るということを、自分で嬉しいと思い、わが心を拝みたいという程しに、豊かになっていくのですから、天で頭を打つということもなくなるだろう。
自分の祈りというものをも少し、高度のところへ持って行くというような行き方をして、田中さんの行き方じゃないですけど、そういう願いを、切実に持たにゃいかんです。ただ、お願いしよることだけだったら、天下国家のことだって祈れるんですからね。
だから、その祈りが切実に、「どうでもおかげを頂かねばならん。おかげを頂いてもらわねばならん」ということになってくるため。なら、それに引き当てての修行をせねばいけません。
そして、起きてくるその問題をです、あのことを願うておることの成就のことのための修行と思うたら、「幹三郎さんが全快して帰って見える。医者はもう九分九厘駄目だと、言うておられる。それでも、これだけたくさんの人が勢祈念して、お願いしておることだから、どうでも今度一遍は、助かって帰ってきてもらわねばならん」
私なりに、そこに、これからいろんな、どんな素晴らしいことが起っても、その煩わしい問題に取組む時に、「これが、幹三郎さん全快頂かれる修行だと思うたら、その煩わしいものも、煩わしいどころではない、もうそれこそ、生き生きとして、有難くその問題に取組める」ということである。
まあ今日は理詰めで、皆さんに聞いて頂いたような気がするんですけど、確かに信心は理詰めです。理詰めよういかにゃいかんです。どんなに素晴らしい信心しよっても、理詰めの悪い人はです、どこかストーッとおかげを落としてしもうとるですね。理詰めよう信心をさしてもらわにゃいけません。
「世に、三宝様踏むな」と、「三宝様踏むと目がつぶれる」と、三宝様ということは穀物、言うならば、尊いもの、大事なもの、言うなら、お徳の元となるような、難儀なら難儀、問題なら問題というものを、押し頂く心になれば、おかげを受け。眼のつぶれておる者でも、眼が見えない者でも、肉眼をおいて、心眼を開けれるような、おかげを頂かせてもらうと言うことになるのですね。
今日は、この四十五節を、いよいよ理詰めで聞いて頂いたように思います。 どうぞ。